甲突の散る純情の跡にけり

桜が風に舞う穏やかな日曜に句会が催された。甲突川沿いの桜並木で一句創作する催しでした。小さい子供連れの夫婦や老人夫婦など老若男女が集う光景もそうあるものではない。人生行路の中では、自分はいま中間地点に来ているのだ、としみじみ思った。甲突川の桜を観ながら、前日に亡くなったいわしげ考さんの事が頭に浮かんだ。

前日に地元紙で鹿児島出身の漫画家いわしげ考さんの死去が報じられていた。柔道マンガ「花マル伝」で知り、30代で青春モノ「ぼっけもん」を読んだことがあり、作者が地元の人で郷土のネタをマンガにしている作者だったから、知っていた。

新聞では「鹿児島の純情な男性が主人公」とある。ああそうだった。この人のマンガの主人公は、多感な頃なせいか、日々悶々としている。「ぼっけもん」では、たぶん鹿児島の女性像をモデルに、さっぱりしてしっかりもの、現実的な生き方を選ぶ、精神的に大人な女性というようなのが出てくる。子供っぽくて青臭い男とは対照的な存在なので、意思疎通(いまの言葉ではコミュニケーションだけど敢えて)が上手くいかない。激しい喧嘩の描写がある。実は私は鹿児島女性が苦手で、30代になり「ぼっけもん」を手に取ったのも昭和の鹿児島女性に興味があってのことだが、なんとなく、女性キャラにその雰囲気が出ていた。

甲突川の桜の樹が、鹿児島の純情な男性のように思えてきた。枝は凛々しくても純情なサクラ色した花びらが特徴的だ。タイトルはそのとき浮かんだ一句。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

甲突の散る純情の跡にけり への1件のフィードバック

  1. オオパチ のコメント:

    いい句だよ。純情って去ってゆくものだよね……。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください