車と生活

こないだおじさんが「自動車ってのは仮面のようだ。近所の人でも車だと気がつかない。」と、なにげない日常の中でふと感じたそうですが、それを聞いてアッと思いました。

鹿児島にはとにかく歩行者がいない。都会のように歩くわけでもなく、door(家) to door(車)の生活になる場合が多い。ホームパーティーなどで郊外で集まる場合など、終バスを気にしない車のほうが重宝がられたりすることもあり、車の必要性を感じることは多く、車社会化されているようです。そして車のほうが分かりやすいような街です。近所でもちょっと行くと大きな道路に出ます。

こないだある地方都市に出かけたとき、小さい道が複雑に交錯していて街に”深み”を感じました。その小さい道はサイズ的にも車が通るようには設計されておらず歩行者が目につきました。帰りのタクシー中でこの街は空襲を免れたと聞き、戦前の町並みだというのが分かりました。 鹿児島は空襲でゼロにされ戦後に作った街で、大きめの道路になにか”頑張って作った”感があるんです。それは人よりも車を優先させた設計なのか高度成長へ繋がったのですが…

そのおじさんは、はからずも高度成長に生きた方だったので、おそろしく説得力がありました。人と人とが言葉を交わすことのない、まるで仮面をつけたように車だけが走っている。ボクが日々うっすらと感じている世知辛いような寂しさを的確に表現していました。幸いにしてボクは車に全く興味がなく自転車生活に目が向いている状態なので、その異常性を肯定する立場にあり、よりいっそう自転車生活に深みが増しました。

ちなみにこんなエピソードを思い出しました。幼稚園のとき母親グループにいた開業医の奥様が子供を外車で送迎していたが、利便性がよく車の必要がないウチとも懇意にしていだだいたこと。昔から車のあるなしを気にしないノンキな家庭だったのです。

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